傷だらけの愛も　失くした夢も
欲望のその果ての　蜃気楼･･･

第　二　章

「ちょっと、フェルディナント、お前、顔色悪いわよ」
　翌日、姉弟揃っての夕食の席でのことである。姉の夫であるザクセン国王フォイエルバッハは多忙とか言って、宮殿で食事をとらされている。
「あぁん？　そんなことはねぇよ。姉貴の気のせいだろ」
　そっくりな姉にそう言われ、フェルディナントは食事にがっつきながらお座なりな返事をした。
「ふん、あたくしの目をごまかせるとでも思って？　どうせお前のことだから疲れたとか言うんじゃなさそうだけど…。…あぁ、若いから溜まってて、眠れないんでしょ」
　ホッホッホ、と手の甲を口元に当てて、上品そうに笑って見せるが、その言葉はとても一国の王妃とは思えなかった。そっくりすぎて嫌な姉弟である。これがフランソワの長姉なのだ。
「ケッ、下品なこと言いやがる。それでも王妃かよ」
　自分だって絶対人のことは言えない筈だが、フェルディナントは自分のことなど遠くの棚の上に放り投げたような口調で、そう決めつけた。
「あぁら、フォイエルバッハはこのあたくしに夢中なの、お前だって知ってるでしょ」
　他人を見下げたような目つき、冷笑的な口元。美人と言えば美人かも知れないが、こんなのをよくも望んで側室にしたもんだと、弟は義兄の趣味の悪さに改めて首を傾げた。
「何言ってやがる。あいつ一人じゃ足りなくて、手当たり次第に近衛の奴ら寝室に引っ張り込んでるって話、この頃よく耳にするぜ」
　これが食事時の、曲がりなりにも貴族の姉弟の会話なのだろうか。同席していた妹のテレジアは、二人に見とがめられぬよう、そっと溜息をついた。
「ふん、忙しくてあたくしに構わないあれが悪いのよ。第一、もうロクな役にも立たないんですからね。それぐらい当然だわ」
　オーッホッホッホ、と盛大に高笑いを放った後、姉ロイトガルトは今気付いたように、黙々と食事を続ける妹に声をかけた。
「あら、随分と大人しいのね、テレジア。何か悩みでもあるのかしら」
「いえ、…自分は現在の職務だけで手一杯ですから、姉上」
　同じ兄弟とは思えない物言いだが、騎士として充分な力量を持つテレジアに相応しい話し方だった。だが、男勝りと言われている割に、根は案外姉よりもずっと女らしいのだ。勿論、そんな自分の姿を、他人に見せることなどなかったが。
「そう。まさか恋の悩みなんてことはないでしょうけどね、お前に限って。ま、お前に女の魅力を使えなんて無理は言わないから、安心なさいな」
「は…。ありがとうございます」
　またもや気分良さそうに高笑いする姉の前に頭を下げ、その影でまた溜息をついた。確かに女の武器を使えと言われたら困ったことになるだろうが、彼女とて人並みの女であることに変わりはない。多少気になる相手がいないわけでもないのだ。
「ふん、せいぜい働いてもらうさ。お前はフォイエルバッハにも気に入られてるしな」
　一人でさっさと食事を平らげ、高級な酒をがぶがぶやっていた兄が、そう呟いた。
　そして、テレジアが何か言いかけるのも聞かず立ち上がると、さっさと背を向けた。
「お前こそ、遊びはほどほどになさい。由緒あるカイゼル家に、どこの馬の骨とも知れぬ下賤な女の血を入れる訳にはいかないのよ。…それとも、金髪の美人がいなければ眠れないのかしら」
　フェルディナントは振り返って、凄い目で姉を睨み付けた。その眼光は戦場で敵を威圧するのと何ら変わりはなかったと、後にテレジアは回顧したものだ。
　そんな殺気すら感じられる視線を、ロイトガルトも余裕で受け止めた。却って挑発するような揶揄を含んだ目で弟を見返す。やはりそっくりな姉弟である。
「…うるせぇな。姉貴はてめえのことだけ考えてな」
　しかし、再び平静を取り戻すと、フェルディナントはそう言い捨てて部屋を出ていった。
「…姉上、兄上はどうなさったのですか？」
　テレジアの問いに、姉は鼻先で笑って答えた。
「お前には分からないでしょうね。…取り敢えず今は女を買いに行ったってことだけよ」
　そして、和やかならざる夕食の宴は、女二人きりで侘びしく続けられた。

　フェルディナントは屋敷に戻ってくると、着替えを始めた。貴族趣味丸出しの華美な衣裳は大嫌いだった。どこぞの一般兵でも着ていそうな地味で粗末な服を選ぶ。場末の娼館に女を買いに行くのには、この方が好都合なのだ。
　次に眼帯を外す。鏡には、右目の潰れた自分の顔が映っていた。それはそれで精悍な顔立ちと合っていないこともなかったが、その傷ついた己の顔を見る度に、弟の顔を思い出す。美しいフランソワ、彼を裏切り、故国に残った弟。
　それが、身勝手な思いこみであることも、今のフェルディナントには分かっていた。だがやはり、この傷がある限り弟は自分のものであるべきだと、思わずにはいられなかった。
　いっそ女々しいと言えるほどの恋着、それも実の弟に対してとは。
　己の想いの激しさが忌々しく、顔を蹙めると思いっきり舌打ちする。フランソワは自分に対してこれ程思ってはいないだろうと考えると、尚更腹立たしかった。
　後は、いつもは後ろに掻き上げてある髪を右反面の前に垂らせば終わりである。眼帯と傷跡があるとすぐにばれてしまうから、こんな小細工をする訳だが、それでも見る人が見れば分かってしまう。要するに言い訳程度でしかない変装なのだった。
　そしてフェルディナントは娼館へ向かった。
　何故手近な宮廷女や侍女を相手にしないのか、とよく言われるのだが、それには彼の現在の地位や家柄が関係していた。
　なまじ宮廷に関わりのある女だと、彼の背後にある地位や財産などに目がいって、後々面倒なことが多い。それは、ラーガイルの時に身に染みて分かったことだ。次はない、と一言言おうものなら、延々と泣き濡れてかき口説こうとする。そんな駆け引きは苦手だった。女でなければ一発ぶん殴ってケリをつけてやればすむのだが、流石にそうはできない。
　もしも、フェルディナントを誉めることができるとしたら、女に手を上げないということだろう。
　だからこそ、金で買って後腐れのない娼婦を選ぶようになったのだ。どうせ処理をするだけならば、金目当てで寄ってくる宮廷の女も、金のために体を売る女も同じ事だ。
　明快な理論である。心は唯フランソワだけを求めているのだ。
「あ…、これはこれは。いらっしゃいませ、今宵は特に佳い子がいますよ」
　既に馴染みになってしまった娼館の主が、彼の姿を認めると、いそいそと寄って来た。彼の身分を知ってはいるが、気前の良い上得意として扱ってくれるので、気が楽だった。
「新しい娘が入りましてな。お気に召せばよいのですが」
　先に立ち、奥の間へと案内する。そこにまだ客を取ったことのない女達が集められていた。
　別に生娘が好きな訳ではないが、それがこの主人なりの気の使いようなのだろう。だから、敢えてフェルディナントも何も言わない。
　けばけばしい露出趣味たっぷりの衣裳を着せられた、怯えた顔の娘が数人、その部屋にいた。衣服の毒々しさが、その娘達の哀れな身の上を一層引き立てているかのようだ。
　フェルディナントは、いつも決してじっくりとは見ない。気に入った娘がいれば即座に引き寄せるし、気に入らなければ何も言わずに出て行ってしまう。
　どうやら、今夜は気に入った女がいたようだ。ずかずかと部屋の中に入ると、右端にいた娘の腕を捉えて引き寄せた。
　主人は何も言わずに一礼すると、残りの娘達を引き連れて静かに出て行った。
　女は驚いたように目を丸くして彼を見上げた。淡い緑に輝く瞳が印象的だった。だが、まだ女というよりも少女と言う方が近い年齢なのではあるまいか。
「…名前は」
「………フランシスカ」
　ひっそりと答える声は、微かに震えているようだった。あどけない顔に、驚きや恐怖や諦め、その他様々な思いを交えた複雑な表情を浮かべていた。
　一瞬、男の眉宇が曇ったように見えたが、気のせいだったのかもしれない。 　男は、軽々と女を寝台に放り出すと、蝋燭の灯りを吹き消した。
　フランシスカと名乗る女は、それは見事な金髪をしていた。
　少女は、寝台の上で震えていた。勿論男に体を開くのも初めてだし、しかも相手は何やら猛々しい雰囲気を持った精悍な若い男である。震えるな、という方が無理なのだろう。望んで娼婦になろうなどと思った訳ではなく、無理矢理連れて来られたのだから尚更だ。
　衣擦れの音、粗末な寝台が軋む。どうやら男が乗ったようだ。
　不意に逞しい腕に抱きすくめられる。思わず身が縮まった。震えが止まらない。
　男の武骨な指が、案外な器用さで衣裳の紐を解いていく、その動きが、フランシスカに否が応でも男を受け入れねばならぬ現実を思い知らせた。
　目を固く閉じ、投げ出した両手は震えながらきつくシーツを握りしめて離さない。
「・・・まだ何もしてねぇだろうが」
　低い、どこか苛ついたような男の声に、益々フランシスカは体を震わせる。
　ギシ、と寝台が軋り、少女のすらりと伸びた足の間に、男の体が侵入してきた。そのまま大きく足を広げさせられる。
　羞恥の余り、思わずフランシスカは両手で顔を覆った。
「いたっ・・・！」
　今初めて男の目に晒された秘部に、突然熱い何かが押し当てられ、乾いた門をこじあけようとする。その衝撃に、反射的にフランシスカは声を上げてしまった。
「いや、痛い・・・！」
　恐怖と痛みに少女は逆上し、つい体の上の男の胸に手を当てて、押しのけようとしてしまった。
「うるせぇ、大人しくしろよ」
「いや、…いやぁ・・・っ！」
　もう訳が分からなかった。フランシスカは泣きながら男の胸を拳で叩いていた。
　チッ、と男が舌打ちするのが聞こえた気がした。だが、痛みと恐怖に少女は怯えるばかりだ。
　フェルディナントは、泣きながら震える少女を見下ろし、それを何かの光景に重ねていた。
　白い体、闇に光る涙、シーツの上に乱れる黄金の髪、痛みに泣き叫ぶのは…。
　フランシスカは闇の中で、動きを止めた男を見上げた。窓から射し込む月の光に照らされた男の精悍な容貌が、初めは不機嫌そうに蹙められていたが、次第に困ったようなものに変化していくのを見た。人差し指で、所在なげに頬をかいたりしている。
「おい…、泣くな」
　その声は先程までの、高圧的な苛ついた声とは違っていた。痛がり、彼を受け入れようとしない少女の反応に困惑している男が、途方に暮れているもののように聞こえた。相変わらずぶっきらぼうで愛想のないものではあったが、何かが違い始めていた。
「…しょうがねぇな。おい、大人しくしてろよ」
　その突然とも言える変化に戸惑いを隠せない少女の返事など待たず、男はさっとフランシスカの足の間に顔を埋めた。
「あ、あぁ・・・」
　覚えのない感覚が彼女を襲った。熱い吐息が傷ついた秘所にかかり、柔らかな舌が丁寧に渓を潤していく。先程までの乱暴さが信じられないくらい優しい動きだった。
　男が顔を上げても、フランシスカはその感触に何もかも忘れて息を弾ませていた。
　だから、緊張の解れた体は男をすんなりと受け入れたのかもしれない。苦しいことに変わりはなかったが、最前の突き刺すような痛みは、幾らか軽減されていた。
　後は、ただ男の動きに合わせて流され落ちていくだけだった。
　泣いている、叫んでいる自分の声は、まるで夜にこだまして己のものでないような気さえしてくる。それは苦鳴から次第に快美の喘ぎに変わっていった。
　幾度も幾度も突き上げられ、揺り上げられる。いつしか、フランシスカは男の逞しいに背に両腕を回してしがみついていた。そして、案外な優しい仕草で首筋や耳朶を愛撫する男に対する、愛おしさの様な気持ちが生まれてくることも。
　繰り返し波はうねり、寄せては返す。その遠い波の揺らめきに身を委ねながら、少女は途切れ途切れに続く声を聞いていた。耳の奥で、いつまでもその声は一つの名を呼んでいた。
　・・・フランソワ・・・・・・俺の・・・フランソワ・・・・・・