傷だらけの愛も　失くした夢も
欲望のその果ての　蜃気楼･･･

第　一　章

「本当に、俺と来る気はないんだな、フランソワ…？」
　これが最後と念を押し、フェルディナントは隻眼で弟を見据えた。
「兄さんこそ、フォイエルバッハの謀反に荷担する気なんですか。そんなこと、本当に成功すると思っているんですか？　国王陛下に逆らうなんて…」
「国王に逆らう訳じゃない。俺は…あいつがキライなんだ」
　つまらない理由。だが、それが本心なのだ。大嫌いな男にへいこら頭を下げて出世するなど、真っ平御免だった。いや、きっと、あいつは俺を昇進などさせないだろう。フランソワを犯した俺を憎んでいるに違いないのだから。
「そんな…。たったそれだけの理由で謀反人になろうと言うのですか」
　驚愕と困惑の入り交じった表情。必死にフェルディナントを翻意させようとしている。しかし、この兄が言い出したら聞かないことなど、よく分かってもいたのだ。
「…俺は行くぜ。いいか、フランソワ、今後、俺を兄と思うなよ」
「待って下さい、兄さん…！」
　背を向けた兄の腕に縋り付く。二人の姉だけでなく、兄も行ってしまうとなると、この国に残るのは自分だけになってしまうのだ。それならばフランソワも一緒に行けば問題ないのだろうが、彼には命よりも大事な人間がこの国にいた。その相手は、死んでも国を裏切る筈のない人間である。
「明日の演習の時に決行する。いいか、このことはあいつにも言うな」
「ダメです、行かないで下さい…！」
　フェルディナントは足を止め、振り向くと、強引に唇を重ねた。
「んっ…！」
　息が止まりそうなくらい強く抱きしめ、舌を絡ませる。弟が好んでつけている香水の香りが、鼻先をくすぐった。
　振り解こうともがく、その抵抗に激しい欲望を覚える。このまま犯してやりたい。
　しかし、今はもう、そんなことをしている余裕はなかった。
「言わねぇ…な。お前は、これで言えない…」
　突き飛ばすように、フランソワの体を引き離すと、フェルディナントは用意して置いた馬に飛び乗り、夜に向けて走り去った。背後に、弟の叫び声を残して。

　それからは、颱風のように忙しい日々が続いた。
　反乱、建国、人心掌握。新しい国にはやることは沢山ある。
　先ずフェルディナントは、ザクセン公国の第一騎士団である双頭竜騎士団の隊長に任命された。階級は伯爵。この人事に反対する者は誰もいなかった。無論、王妃ロイトガルトの弟であるという血縁を差し引いても、勇猛さで彼に敵う人間はこの国にいない。
　忙しいというのはいいことだった。何も考えなくていい。ただ命ぜられるままに戦いを繰り返し、国の威信を見せつけてやればいい。
　だが、ふと嵐の谷間に放り出されると、フェルディナントは弟のことを考えている自分に気付く。否応なく気付かされる。
　暗闇の中、火も灯さずに寝台の上で思うのは、フランソワのしなやかな肢体。幼き日、怒りと力に任せて引き裂いた白い肌、シーツの上に散った金の髪。
　本当に、置いて来てよかったのだろうか。多少乱れた関係だが、フランソワを巡るライバルであるラーガイル国摂政のクローヴィスは、今や若い彼にとって、厳然として立ちはだかる政敵でもあった。いや、恋愛の敵対関係があるから対立しているのか。
　どちらにしろ気に食わない相手であり、そいつが摂政などになったのだから、許せる筈がない。そんな大嫌いな相手に、あの美しいフランソワが好き放題されていると思うだけで腹立たしい。何しろフランソワも幼い頃から憎からず思っている様子だから、尚更始末が悪い。あんな、彼らからすればジジイであるクローヴィスなどに、どうして頭を下げて忠誠を誓うことなどできようか。
　そこでフェルディナントは自分に反問する。
　俺は、フランソワをどうしたいのか、どう思っているのか、と。
　小さい頃は、自分の弟だとは思えなかった。線が細く、甘やかされて愛らしい子供、彼とはまるで正反対の弟。別に喧嘩をしているつもりはないが、周囲はそう見ていたようだ。それがいつしか心の隙間を生み、二人の心は少しずつ離れていった。
　そして、忘れもしない十六になったばかりの時の、あの事件。
　いつものように屋敷の庭で弟と二人で剣の稽古をしていた時のことだ。
　近頃はフランソワも剣の腕が目に見えて上達してきていた。勿論、俺が相手してやってるからだな、とフェルディナントは思っているのだが、その日、フランソワは妙に調子がよかった。いや、彼の体調が悪かったのかもしれない。
　兎に角、全ては不運な偶然が重なり合って起こったできごとだったのだ。
　彼自身も、何故そんなことになったのか、はっきりとは思い出せない。気がつくと右目に激痛を感じてのたうち回っていたのだ。
「兄さん・・・！」
　反射的に押さえた目からは、生温い血が−紛れもない彼自身の血液が流れ出していた。
　残された左目が、血にまみれた弟の剣尖を見た。そして、記憶が暗転した。
　気付いたとき、既に右目は永遠に失われていた。
　それからだった。弟に対して理不尽なほどの怒りを覚えるようになったのは。
　そして、傷もまだ癒えぬあの日。家の者が皆出払って、屋敷には不機嫌に病床に横たわった彼と、すっかり落ち込んだ弟だけが残されていた。
　・・・あの時、俺の前で項垂れるフランソワが、無性に憎くなって、カッとなった怒りをぶつけた…。押さえつけぼろぼろにしてやらないと、気が済まないような気がしたんだ。だから、怖々俺の寝室に入って来たあいつを、俺は怒りの侭に引き裂いてやった。男のものとは思えない少年の声が細く空気を裂き、やめてくれと叫んだその口を塞いで、俺は自分で包帯を引きちぎった。
「これを見ろ…！　お前が…、お前がやったんだぞ！　どうしてくれるんだ…っ！」
　未だ乾ききらない生々しい傷跡、化膿しないのが不思議なくらいのそれを、俺はフランソワにつきつけた。罪悪感にかられることは承知の上だった。
　真っ青になって泣きながら、フランソワは必死で謝っていた。俺は、何でもすると無理矢理言わせて、そのままフランソワを犯した・・・。
　しかし、一時の激情に流されては見たものの、フェルディナントの心の奥には奇妙な苛立ちだけが取り残されていた。違う、そうじゃないんだ、と何度も叫びながら、それでもフェルディナントは、幾度も弟を犯し続けた。
　抵抗も出来ずに震える弟を、罪悪感で縛り付けるのに興奮と快感を味わう。
　だが、次の瞬間それは索漠とした後悔の念に取って変わられていた。ではどうしたいのだと問われても、彼は他に方法を知らなかったのだ。
　漠然と思うのは、フランソワはこれで彼のものだという征服感である。大事な片目を奪われたのだから、フランソワは一生彼に償わなければいけないのだ。もう、フランソワは彼に逆らうことなどできない、そう信じていた。
　そんな夢想は、やがて破られることになった。
　いきなり現れてフランソワを横から奪って行った男−クローヴィス、そいつがフランソワを抱いた。親しげに往来などしていたから、何か嫌な予感はあったが、まさか大貴族で父親ほども年の離れた男が、フランソワにそのような真似をするなど、考えられなかった。そして、フランソワもそれを憎からず思っているようなのが、益々許せない。
　それだから、彼はフランソワにキツく当たるようになった。彼の前に来ると、いつも怯えたような顔をするのに、クローヴィスの所へ行く時など、喜んで出かけていくのも気に食わない。その度に、フェルディナントは何とも言えない、暗く冷たい炎が胸の内を荒れ狂うのを感じていた。
　それは、自分以外に抱かれる弟への憎悪であり、相手への嫉妬でもあった。
　更に、フランソワが彼を拒み始めてきたのだ。クローヴィス様が、とか言って彼の腕から逃れようとしだしたのだ。これは、絶対に許せない裏切り行為だとフェルディナントは感じたのだが、フランソワは初めから彼だけの物ではなかったのである。
　怒りか、憎悪か、歪んだ愛情か、何か分からない想いがもやもやと彼の中に鬱積し、フェルディナントは益々荒々しくなっていくしかなかった。傍で見る誰もが、二人を不仲だと感じる程に。片目を奪った弟を憎むのは当然だと、皆納得した。
　けれど、本当はそうではなく、彼だってフランソワを優しく愛してやりたかったのだ。抱きしめて愛していると囁いてやれれば、どれ程楽だったか。
　しかし、今となってはもうどうにもできなかった。
　幼いフランソワを犯したあの時から、彼には弟を強引に奪うしか手段がなかったのだ。今更どの面下げて、愛している、などと言えるのか。
　・・・愛している…？　この俺が、フランソワを…。…そうだ、何故始めに認めなかったのか。愛しさが逆上して、俺はフランソワを犯した。奪うことで俺の物にしたかった。…だが、それだけではフランソワは俺のものにならなかったのか？　俺は、どうすればよかったんだ。いっそ、ラーガイルになど残さず、縛り付けてでも連れてくればよかったのか。そうすれば、あいつは俺だけのものになったかもしれないというのに。
　暗い寝台の上で、フェルディナントは唇を噛みしめた。美しい青年に成長したフランソワの姿が頭から離れなかった。
　・・・七年。俺がフランソワを奪ってから、そんなに経つのか…。
　最後に体を重ねたのは、いつだったろう。乱暴な兄の愛撫に、いつからかフランソワは反抗し、滅多なことでは体を許さなくなっていた。それは、騎士としての技量の成長にも比例しており、その天賦の才に、フェルディナントも内心驚いてはいたのだ。
　何にしろ、フランソワにばかり構っているのは、彼自身の体面や弟に対する見栄もあり、フェルディナントもそんなに多くは求めなかった。それに、肌を晒したとき、弟の白い肌にくっきりと他人の付けた愛撫の痕を見るのも嫌だった。
　いや、体は愛しいフランソワを求めているのだが、それを強引に意志でねじ伏せ、フェルディナントは一夜の情事だけを繰り返すようになってしまった。こうなってしまっては、フランソワでないなら誰でも一緒である。
　元々愛想もよくないのだが、公式の席などでフランソワの話題がでると、途端に不機嫌になった。聞きたくない訳ではないのだが、それが「あのジジイ」にも密接に関わっているようなので、聞いていていい気がしなかっただけなのである。
　それを、宮廷の人間は誤解した。幾ら実のご兄弟とは言っても、水と火ほどに性格の違うお二人なのだから。それにあの傷のことも…、と勝手に納得して誰もが彼の前でフランソワの話題を口にすることを憚るようになっていったのだ。
　幾ら体の飢えを満たしても、気持ちは少しも和らがぬ侭、数年。ついに彼は故国に弓引き、反逆者として、弟とは別の人生を歩み出す様になったのだった。
　・・・チクショウ、どうして、あいつのことがこんなに気に掛かるんだよ。あんな、俺よりも、陰険なジジイを選んだあいつのことが…！　…何でだ・・・。
　幾ら悪態をついてみたところで、弟に対する絶望的なまでの想いは冷めやらず、却って下半身が熱を帯びてくるのを自覚せざるをえなかった。抱きたい、ただそればかりが頭にある。
　彼の下でのたうった白い体、泣きながら哀願する声。彼の記憶の中でフランソワはいつもあられもない姿で彼を誘っていた。十七の、十二の、十五のそれぞれの顔で。だが、その扇情的な姿に手が届くことは決してなかった。
「フランソワ・・・っ！」
　闇の中、気が狂いそうなほど、彼はフランソワを欲していた。己の欲を抑制しようなどと思わぬフェルディナントは、熱く猛った己自身に手を伸ばし、扱き始めていた。
「チクショウ・・っ！」
　艶麗に微笑んでフランソワが彼を見ていた。冷たい月のように。
　その冷静な微笑みに彼はどうしようもなく惹かれ、そして引き裂き泣き喚かせてやりたい欲望にかられる。フェルディナントのものが、更に熱く脈打って自らの手の中で暴れた。
　自ら強く握り、擦り上げる快感は彼を締め付けるフランソワの内部を思い出させた。手の動きが早くなっていく。耳の奥に、切なく高まっていくフランソワの喘ぎが聞こえたような気がした。
　思い起こす度に、彼の分身は益々猛り狂い、虚しく空を突き上げるばかり。どくどくと脈打ち、止め処もなく手の中で震え、節くれ立っていく。
　ふとフェルディナントは自分のものながら、その逞しさに満足を覚えた。こいつをフランソワに突き立ててやったら…。狂暴に荒れ狂う男で、思う存分鳴かせてやるのに。
　そう思った途端、不意に絶頂感が彼を襲った。熱い液体が闇の中に飛び散る。
　偽りの満足と放出が済み、フェルディナントは苦々しい思いで自分の手と股間を見ていた。たったこれだけでは、若い彼の体が満足する筈がなかった。
　舌打ちを重ね、取り敢えず汚れた手と体を清めると、自棄になったように布団を頭から被って眠ろうと試みた。
　しかし、結局眠れぬまま、その夜は過ぎてしまったのであった。