「初会」

一目見た瞬間。
其処に引き寄せられる。
徒な笑顔で媚びを売るその中で。
愛想も振りまかず独り坐す。
その姿に、堕ちる。

上げられた座敷で妓を待つ時間。
それは大した時ではない筈だ。
それでも、待ち遠しさに胸が震えた。
しなやかに妓が座敷に姿を現す。
毅然とした横顔が美しいと想った。
「よう来んしゃったの、客人」
嫣然と、しかしどこか悪戯っぽく笑う。
その笑顔が眩しい。
見覚えのある、顔。
妓は覚えていないだろう。
数多の男に春を売る、遊女の身なれば。
盃を交わし、一言二言。
妓は手を振って禿を下がらせる。
「その眼…覚えとうよ」
「え・・・？」
すと太夫は立ち上がると隣室へと続く襖を開けた。
禿が敷き延べたであろう、豪華な夜具が見える。
はらりと打ち掛けが落ち、しゅるしゅると帯の解ける音。
「…来んしゃい」
柳生は立ち上がり、背後から太夫の薄い躯を抱き締めた。
袷から手を差し入れると、薄い胸を探る。
ほ、と溜息一つ。
女ならぬ男の身で太夫を勤めるのは、どれ程の苦労がいるのだろう。
今、吉原で最も流行りの地獄太夫は、柳生の胸に身を預けた。

翌朝。
現か夢か分からぬまま、柳生は目覚めた。
襦袢に薄物一枚を纏った姿で、太夫は窓辺にもたれかかっていた。
「起きたか？」
ひょいと振り返り、地獄太夫は少しだけ笑って見せた。
化粧など施していなくても充分に美しい、それでもやはりどこか男らしい素顔。
情交の痕の歴然と残る寝乱れた格好が妙に気恥ずかしく、柳生は何も言えなかった。
「あの…お早うございます」
漸く口に出来たのはその一言。
可笑しそうに太夫はくつくつと喉の奥で笑った。
「おかしか男じゃの、吾主」
地獄は柳生の横に腰を下ろし、首に腕を回した。
「…朝の挨拶ば教えちゃるよ」
そのまま唇を深く重ねる。
淫らに誘い込む舌の動きに、未解放の朝が刺激される。
「なん？　やれば出来るんじゃの」
笑いながら太夫は、柳生の熱を帯びた股間に手を伸ばした。
「ちょっ…、何をするんですか」
「朝の、あ・い・さ・つ」
慌てる柳生の耳に、暖かい吐息と共に囁きかけられる声。
一気に柳生の心臓が跳ね上がった。
「あの時と…同じ事を言う…」
太夫の躯を組み敷きながら、苦笑混じりに呟いた。
にやりと笑って、太夫は答える。
「…覚えとうけん、こげにしよるよ。あん時よりは、上手くなったの、吾主」
「覚えて…いてくれたのですか、私の事を？」
昨夜も確かそんなことを言っていたように思う。
だが、まさかと思ってもいたのだ。
数年前、一度寝ただけの男の事など、覚えている筈がないと。
「やけん、昨夜は吾主と寝た」
「そうなのですか…？」
吉原遊郭も後期に入り、遊びが大衆化する以前の事。
置屋と揚屋が分かれているこの頃の遊びでは、太夫の格式は相当に高い。
初会−つまり初めて呼ばれた客に帯など解かないのが普通であった。
「そうじゃ。やけん、の…早うしんしゃい」
誘うように地獄の唇が柳生の首筋に吸い付いた。
「貴方は…可愛い人だ…」
再び、柳生は地獄に堕ちる。
「・・・そろそろ、時間やの」
羽織を着せ掛けてやりながら、地獄太夫は呟いた。
「もう、そんな刻限なのですか」
柳生の背中に頬を寄せ、そっと抱き付く。
「帰りたく…ないですね」
「俺かて帰しとうなか…まだ無理やけん、今日は帰り」
居続けなどという贅沢が出来るのは、馴染みになってから。
それは柳生も知っていた。
「また、来ます」
「俺もまた逢いたかよ…」
しおらしい声が答える。こんな情緒も悪くない、など思っていると。
「…こげな事ば言うのが、遊女の手管じゃがの」
くすくすと笑う声。
「…いいですよ、貴方にならば騙されてあげます」
「よか。ええ男やの、吾主」
本当に楽しそうな声で太夫が言う。
何処までが本当か。いや、遊女に嘘は付き物だ。
そう思っても、この男にならば騙されても構わないと柳生は思った。
「迎いが来るの…」
名残惜しそうな声。これも演技だとしたら大した物だ。
「太夫…貴方の名は？」
立ち上がりながら尋ねる。
その首に腕を廻し、唇が触れ合うほど近くで地獄は囁いた。
「馴染みになったら教えちゃるけん、また来んしゃい」
「…分かりました。その時は、必ず」
唇が重なり、二人は短い逢瀬の別れを惜しむように暫く抱き合っていた。