「危険な森」
黒い森、年経た森。
昼尚昏いその森に、独り暮らす狼がいた。
狼の名はソル。
森と同じほど年経た黒い狼であった。
狼はこの森で好きなことをして暮らしてきた。
獲物には事欠くこともなく、好きなだけ三大本能を満たす生活が続いていた。
しかし、そんな狼の森に、最近厄介な人間どもが住むようになってきたのである。
一人は引退騎士のクリフとかいう老人であった。
せめて女なら食う気も起きるだろうに…と内心がっかりした狼である。
どう見ても食欲をそそられるじじいではない。
おまけに、年は食っていても、無闇に元気な老人であった。
「何じゃ、貴様は正業にも就かずごろごろと…」
など、狼に説教くれる始末である。
しかし、狼の正業ってなんだ？
そして、もう一人始末に終えないのが増えた。
「ソル、待ちなさい！ 今日こそはお前に…」
とか言いながらソルを捕まえようとするカイという青年である。
最近狼の被害が酷いと都に報告がなされ、狼討伐のために派遣された騎士だった。
勿論、ソルは適当に軽くあしらって追い払っていたのだが、
どうも他の狩人どもとは訳が違うらしく、なかなかにしつこい。
「やれやれだぜ・・・」
今日も口癖を呟きながら、狼は騎士から身を隠すのであった。
そんな生活を繰り返していたある日のこと。
老騎士クリフの家の前を通りがかったソル狼。
中から聞こえてくるのは、カイとの雑談らしい。
「どうものぅ、近頃体の調子が良くないんじゃ。
すまんが、カイよ、町へ行ってわしの息子を連れて来てくれんかの」
「息子さんがいらしたのですか？
分かりました、そういうことであれば、この私が確かに連れて参ります」
クリフの呑気そうな笑い声。
「すまんの。町に行って、クリフからの使いじゃと言えば、すぐに教えてもらえるじゃろう。頼んだぞ」
「はい」
そうカイが答えて席を立ったとき、既にソルはそこにいなかった。
その話を聞いていて、頭にひらめく物があったのだ。
別にクリフの息子になんぞ興味はなかったが（どうせ大したことないのは想像がつく）、
カイを出し抜いてやるのは悪くない。
ほんのちょっとした悪戯心だった。
ついでに、その息子とやらを楯にとって、煩い口出しを止めさせてやることができれば、一石二鳥というものである。
ソルは、長い間に覚えた魔法の力で、人間の姿をとった。
久しぶりだが、上手く化けられたらしい。
獣だけが知る近道を通りながら、ソルは自分の姿に満足していた。
さて、町に着いたソルは、クリフの息子を捜した。
「森にいるクリフの使いで来たんだが…」
と言うと、誰もが親切に道を教えてくれる。
お陰で難なくその家が分かった。
こじんまりした家だった。
庭先には綺麗な花壇があり、奥からは何やら香ばしい匂いが漂ってくる。
ドンドンと扉を叩くと、待つほどもなく扉は開かれた。
「はぁい、どなた様？」
扉を開けたのは、まだ若い人間だった。
森にいるカイより少し年上だろうか。
非常に整った、美しい容貌をしていた。
長い黒髪も艶やかに、白い肌に赤い瞳が印象的だった。
「俺はクリフの息子に用があって来たんだが」
そうソルが言うと、若者は驚いた様な表情を浮かべた。
「父さんがどうかしたんですか？」
「お前じゃなくて、息子だ」
若者はきょとんとした顔でソルを見上げた。
「だから、父さんでしょ？ 私、クリフ・アンダーソンの息子」
「息子？？？！」
思わずソルはまじまじとその人間を見下ろした。
どう見てもあのクリフの息子には見えない。
あり得るところでは、息子の嫁だろうと思ったのだ。
いや、確かに匂いは男に違いないが、微かな女の匂いも狼の鋭敏な嗅覚は捉えていた。
「そう、テスタメントって言います。それで、父さんがどうしました？」
テスタメントと名乗った青年は、ソルに問いかける。
・・・こいつは、計画変更だな。
胸の内でにやりと笑いつつ、ソルは呟いた。
こんな美味そうな獲物には、ここ最近お目に掛かっていない。
あのカイが護衛したり、安全な道を教えたりしているからだ。
クリフが会いたがっている、と告げると、テスタメントは頷いた。
「分かりました、すぐ支度してくるから、待っててくれますか？」
軽く身を翻すと、テスタメントは家の中に消えた。
そして今、ソル狼はテスタメントと一緒に森を歩いている。
大きなバスケットの中身は、膏薬とワインと手作りの菓子だという。
「父さんの所に着いたら、ソルにもご馳走してあげますね」
すっかりソルのことを信用している雰囲気である。
菓子なんぞより、もっと美味いもんが食いてぇんだが。
狼はそのことばかりが頭にあった。
「…なぁ、テス。このまま道なりに行くと、クリフんとこに着くのは夕方になっちまうぜ？」
「え？ そんなにかかるの？」
そろそろ森も深くなってこようと言う時、不意に狼が言い出した。
「あぁ。道が曲がりくねってるからよ。…だが、俺だけが知ってる道を使えば、昼過ぎには着くぜ」
「ん〜、そんな道が本当にあるの？ 私、聞いたことないけど」
ちょっとだけ疑わしそうにテスタメントが反論する。
「あぁ、勿論だぜ。俺だけが知ってるんだ。俺はこの森には長いからな」
自信たっぷりにソル狼が保証してみせる。
「そうなんだ。・・・じゃあ…案内してもらえますか？ 早く父さんに会いたいし」
父思いのテスタメントは、とうとう狼に案内されて森の奥深くへ進むことになった。
それが、どんな結末を引き起こすことになるかも知らず。
二人が歩いていったのは、獣道よりもややましな程度の狭い道だった。
だが、確かに直進しているので、テスタメントは安心した。
はぐれないように、しっかりとソルが手を握っている。
何となく、テスタメントは胸が熱くなるのを覚えた。
ソルの手は大きく堅かったが、暖かだった。
やがて、一気に森が開け、そこには一面の花畑が広がっていた。
「うわあ・・・！」
草花が好きなテスタメントの表情が明るくなった。
「さて、ここまでくりゃ、あと少しだぜ」
「そうですか？ ありがとうございます」
花よりも美しい笑顔で、テスタメントがお礼の言葉を述べた。
「素敵なお花畑…。そうだ、父さんに摘んでいってあげよう」
テスタメントはしゃがみ込んで、花に手を伸ばした。
「ソル、悪いけど、ちょっと…」
待っていて、と言おうとしたテスタメントの体は俯せに押さえつけられていた。
「きゃぁっ…！ な、何を…！」
「決まってんだろ。…お前を食うんだ」
背後から狼がのしかかってくる。
テスタメントは、そこで漸く閃くものがあった。
「ま、まさか、狼・・・」
「ふん・・・やっと気付いたか」
狼は、テスタメントの衣服をたくし上げ、下着を剥ぎ取った。
「止めて…っ！」
腕の下でもがくテスタメントの悲鳴。
だが、狼の目の前に曝された物は、想像を絶するものだった。
男と女、混在する二つの性。
「お前・・・」
「いやっ、離して…！！」
獲物の抵抗が一段と激しくなった。
誰にも知られたくなかったことなのだろう。
「暴れるなよ」
「いや、いやぁぁぁぁっ…！」
暴れもがく体を、狼は強く抱き締めた。
「あ・・・」
思いがけなくも、狼の腕の中は暖かかった。
何故か、懐かしいような気さえして。
だが、そんな思いなど束の間に過ぎなかった。
一瞬後、テスタメントの体内に灼熱の棒がねじ込まれた。
「きゃあぁぁぁぁっ…！ いやっ、痛い・・・！！」
「大人しく、しろよ・・・」
耳元で、熱い狼の吐息。
大きな手が、滑らかなテスタメントの肌をまさぐる。
鋭い牙が、浅く肩の皮膚を傷つける。
「やめて…っ！」
あがく指先で花が乱れ散った。
「お前を、俺のものに、する・・・」
背後から強引に突き入れた狼の腰がゆるゆると動く。
「いやっ、助けて・・・！」
叫ぶ声を聞く者はなく、無惨に折り曲げられた形で、犯される。
白磁の頬に涙がこぼれ落ちた。
深い森の奥、真紅の花が咲き、砕け散った。
「酷い・・・こんな・・・こんなことって・・・」
力無く花の褥に横たわったまま、テスタメントの頬を止めどなく涙が伝う。
そんなテスタメントの風情を見たソルは、生まれて初めての感情を味わった。
胸の奥を、鈍い刃物で突き刺し、抉り回すような不快感。
それが、後悔だった。
今まで、森の奥で食べてきた赤ずきん達には、こんな思いを抱いたことなどなかったというのに。
「・・・テス・・・」
狼にしてはおずおずと、ソルは声をかけた。
「こんなこと…どうして・・・」
破れ乱れた衣服、剥き出しの白い肌。地に舞った長い黒髪。
それらが、狼の目を奪う。
ソルは、テスタメントの横にしゃがんだ。
「いやっ…！」
怯えたように後ずさる姿に、再びソルの胸が痛んだ。
「テス・・・」
「来ないで…！」
尚も逃げようとする体を、ソルは強く抱き締めた。
「いやっ、離して！」
先ほどのことを思い出して、テスタメントは暴れた。
「・・・すまねぇ」
その耳に聞こえたのは、低い声で謝罪するソルの声だった。
「え・・・？」
「…もう、こんなことはしねぇ。だから、暴れるな」
ソルは益々強くテスタメントを抱き締めた。
「そ…そんなこと、今更言ったって…」
「本当だ。すまなかった…」
訳が分からず、テスタメントの頭は混乱した。
「何で・・・そんな、今頃そんなこと言うなんて…」
テスタメントは暴れるのを止め、ソルの方を見ようとした。
「もう…しねぇから、・・・だから、俺の傍にいろ」
「え？ ソル・・・？」
狼はテスタメントの肩口に顔を埋め、己が付けた牙の痕を認めた。
「テス・・・、ここに、いてくれ・・・」
「そんな・・・。なんで…どうして…？」
その時、テスタメントには狼の気持ちが分かった様な気がした。
孤独。
何物にも覆いがたい孤独に満たされた生き物の、心。
何をしても癒されることのなかった、孤独という名の恐怖。
その寂寥を埋める相手を、ただがむしゃらに求めていた存在。
それが、この狼なのだと。
「ソル・・・、…寂しいの…？」
「…わからねぇ。ただ俺は…お前に傍にいて欲しいと…思った…」
「ソル・・・」
不意にテスタメントの胸にこみ上げてきたのは、不思議な感情だった。
一息に愛情などと言えるような物ではなかったが、
潮のようにテスタメントの心を満たしていく暖かい気持ちだった。
「うん・・・、じゃあ…少し考えさせて下さい。ここにいますから」
狼はゆっくりと頷いた。
その後、狼はクリフに嫁取りの申し込みに行くのだが、それはまた後のお話…
