白い翼

「白い翼の散る夜」

by　IGHIA･Lied

　幾昼夜、戦いが続けられていただろう。人にも知れず、何者も邪魔に入らず。
　何故戦わねばならないのか、その理由を彼は知らない。だが、相手はそうではなかった。そこに彼がいるだけで戦いを挑む理由になるのだと言った。
　ここはそいつの砦だった。既に城と言った方がいいかもしれない。「迷ってしまったか・・・。どうする？」　自問自答する。体は綿のように疲れ切っていたが、疲労の極にある体を無理矢理動かして迷路のような城の中を歩く。時々立ち止まっては、壁にもたれ、一体今はいつなのだろうと考えたりもした。だが、疲れのせいか、思考がまとまらなかった。　しかし、出口はどこなのだろう。無闇に広い城だった。「このようなところにいたのか、エンジェモン」
　背後からかけられた声。思わず振り向いた。
「デビモン・・・！」
　視線の先に、仇敵であるモンスターの黒い立ち姿。　反射的に戦闘態勢をとろうとしたが、最早足がふらつく。その隙を彼が逃す筈もなかった。　ロッドを握った手首を掴まれ、背後にねじり上げられた。
「待っていたぞ、この時を長い間、な」
「離せ！　私を…殺したいのなら、早く殺すがいい。お前などの嬲り者になど…！」　くくくっ、と耳元でデビモンが笑った。背筋を凍らすような含み笑いだ。
「殺す…？　折角捕らえた獲物を、そう簡単に解放しては面白くないではないか」　優しい、とすら聞こえる低い声。だが、次の瞬間！
「ウ、アァァーッ…！」
　空いた手で、デビモンは三対の美しい純白の翼を、一枚引き毟ったのだ。
　仰け反り、喉の奥から絶叫する獲物の苦悶する姿を心地よさげに眺める。掴んだ手を通して、伝わってくる震えが、彼を残酷な愉悦に浸らせる。
　強い力で手首を掴む、手の中で、骨が軋んだ。
　翼を千切られた天使は逃れようともがく。肩口から血を滴らせながら。その存在そのもののように白い衣装と、長い髪に血がからみついた。　半ば引きずるようにして、デビモンは獲物を捕らえ、ある一室に足を向けた。　窓もなく、どこからどこまでも巨石で作られた部屋。部屋の中央から奥は、太い鉄格子で仕切られて、どう見ても檻にしか見えなかった。　その狭い空間に、デビモンは捉えた天使を無造作に放り込んだ。「ここがお前の巣だ。大人しくしていれば餌ぐらいはくれてやろう」　冷たい石の床に投げ出されたエンジェモンは、振り返り、鋭い声で応じた。「誰がお前などの手に下るものか、さあ、殺すがいい」　痛みを怺え、眉を寄せながらも毅然と言い放つ姿に、残酷な愉悦に満ちた笑みで応える。彼の者は、地に堕ちた天使、歪んだ欲がその心を支配する。
　引きちぎられた純白の翼が、血に染まって鉄格子の外に転がっている。それは、この後のエンジェモンの運命を暗示してはいないか。
　再び腕を掴んだ。既に振り払う力など残っていないことは分かっている。この瞬間の為に、わざわざ時間をかけてこの城に追い込み、無限の闘争をしかけたのだ。
　そしてもう一度、その細い腕を背後に捻り上げると、デビモンは先程自らむしり取った翼の付け根に口を寄せ、吸った。濃厚な血の味が口中に広がる。
「アアァァァーッ!!　・・・アゥッ…！　や、…やめ・・・！」　更に悲鳴を絞り出させようと、彼はその傷に舌を差し入れ、深く抉るように動かした。　獲物の苦悶が、触れ合った体から直に伝わってくる。痛みの余りか、全身が痙攣する。その様が心地よかった。もっと嬲ってやりたいという欲が心の奥から沸き上がる。　激しく髪を振り乱し、逃れようともがく。抵抗の気力を失ってはいないところが、尚更楽しい。　そうして、どれほどの時間、彼はその血を啜り続けたことだろう。全き善なる存在、そのものの血が、彼を芳醇な酒のように酔わせ、残酷な気分をかきたてる。
　そのうち、デビモンは彼を満足させる趣向を思いついたらしく、白い翼の天使を苛んでいた口を離した。冷酷な笑みに血塗れの口元を歪める。
「…もう、夜が明けるか。続きはまた次の夜まで待つとしよう、エンジェモン」　眠らねばならぬ夜にこのような目に会わされ、またそれより以前から戦い続けてきたエンジェモンには、本来、答える力など残ってはいない。だが、手を離し、するりと格子の外に出た相手を睨み返すだけの力は残されていたようだ。
「覚えていろ、デビモン、必ず、私はお前を倒す」　挑戦の言葉に、余裕の嘲笑すら見せて、そいつは鉄格子の部屋を後にした。
　白い翼の天使は、そいつのいなくなったあと、不覚にも昏睡に陥ってしまった。これ以上はないほどの疲労が体の奥までたまり、何より、背中の激痛のせいで退化することもできなかったのだ。このようなことは初めてだった。

　不安な眠りから覚めると、幾らか気分が楽になっていた。背中の痛みは去ったわけではないが、手足の先から疲れは大分抜けていた。　そこで気がついた。頑丈そうな鉄格子に、鍵がかかっていないことに。　罠かも知れない、と考えてみたが、こんなところにいては、やつの思いのままだ。エンジェモンは傷ついた体で起きあがると、そっとその石造りの部屋から抜け出した。　部屋を出て、突き当たりの階段を下る。少なくとも下へ行けば出口があるかもしれない。一縷の望みを抱いて階段を下り続ける。　すると、左手の壁にぽっかりと口を開けた窓があった。　下を覗いてみると、地上からさほど高くはないところだ。なんとかこの対の欠けた翼でも下りられそうだと計算する。先ずはここから逃げないことには話しにならないのだ。　覚悟を決めて、エンジェモンは窓から身を乗り出し、逡巡した。空を飛ぶのに怖いと思ったことなど今まで一度もなかったというのに。しかし、意を決すると次の瞬間、窓から手を離し、地上へ降り立った。降りたと言うよりは、堕ちたというほうが近いかも知れない。何しろ、その翼は、殆ど動かすことができなかったのだ。
「いた…！　・・・いけない、こんなところでぐずぐずしていたら…」　すぐに蹌踉めきつつ歩き出す。何か想像もつかないが、殺されるよりも恐ろしいことが、自分を待ち受けているような気がして、焦燥の念に駆られていたのだ。　よろよろと歩き出す。しかし、パタモンに退化するよりも、まだこの方が早い。
　一体どれくらい歩き続けたことだろう。道なき道を何とかよろぼいつつ、やっと、エンジェモンは大きな森にたどり着いた。見ると、そこには澄んだ水を湛えた泉がある。　エンジェモンは、この泉で血に汚れた体を浄めようと思いついた。　動かすのも億劫だが、何とか戦闘服を脱ぐと、ひやりと心地よい水に体を浸した。
　血を吸って体に張り付いていた長い金色の髪が、水面にふわりと広がる。鍛え上げ、無駄なく引き締まった体つきはいっそのこと華奢とも言える。白い肌は陽光を映して艶やかに煌めき、純白の翼を一層引き立てる。ただ、その羽根が一枚欠けているのが無惨だった。「痛っ・・・！　やはり、堪えたな。…デビモンの奴め、何を考えているのだ」　
　あのような手酷い扱いを受けたことよりも、己の不甲斐なさに憤り、紅い唇を噛みしめる。覚えず、端正な眉根に皺が寄せられた。　
　しかし、清らかな水は、それだけでエンジェモンの傷ついた体を癒してくれるようだった。疲れていた体から、ゆっくりと疲労が溶けだしていくのが感じられる。
　できればもっとのんびりしていたいのだが、日が落ちてからでは、恐らくすぐにあいつが気づいて追いかけてくることだろう。それまでに、何とか仲間の元に帰り着かねばならないのだ。
　髪から水を絞り出し、再び血染めの衣服を身につける。流石に洗っている時間などない。だが、肩当てと兜はつける気にならなかった。材質は軽いのだが、傷ついた身では、そんな僅かな重量ですら苦痛になる。
そして、泉を後にして森に隠れようとしたその瞬間…！
「あぅっ・・・！」
　音もなく背後から滑空してきた者が、翼をむしり取られた肩口を掴んだ。そのまま容赦なく固く鋭い爪が傷口にねじこまれる。
「アアアァァーッ!!!!」
　油断していた一瞬の気の緩み、抑えきれない絶叫がエンジェモンの喉から迸った。
「どこへ、行こうというのだ、私のエンジェモンよ」　紛れもない、堕天使の声。揶揄するような低い声が、奇妙に嬉しそうだ。
「デ、…デビモ、ン・・・。貴様…！」　それ以上は言葉もでなかった。血の色をした痛みが肩から脳髄へと広がり、瞼の裏が真紅に染まる。無意識のうちに止めどなく涙が溢れていた。
　脈を打ち、全身に響き渡るような痛み、鋭い痛みは、やがて鈍く重くなり、どこが痛いと言うより、全身が痛みの感覚だけになってしまったかのようだ。血が流れ出、そして、溶暗。