傷だらけの愛も　失くした夢も
欲望のその果ての　蜃気楼･･･

幕間

　翌朝、狭い部屋に陽が射し込んできて、斜めに顔を照らし出す。その光の眩しさに少女は目を開けた。
　隣には、誰もいなかった。全裸の自分と寝乱れたシーツ、それが昨夜のことを思い起こさせ、少女は一人寝台の上で頬を紅く染めた。
　枕元には、不相応なほどの銀貨が置いてあった。彼女の一夜の代金なのだろう。
「あの方は、一体・・・どこへ行ってしまったのかしら…？」
　起きあがろうとすると、下腹が不自然に痛んだ。昨夜の名残であろう。何とか寝台から降り、脱ぎ捨ててあった衣裳に袖を通す。見ると、寝台には赤く血で染まった箇所があった。
　ここで彼女は処女を失ったのだ。
　恥じらいと諦めと狼狽で困っていると、ノックの音がして、宿の女将が入って来た。
「おや・・・、もう起きたのかい」
　女将は娘を気遣うでもなくそう言い、早速あれこれと今日の指示を出した。
　が、それらが済むと急に心配そうな表情になって、フランシスカに近づいて来て言った。
「・・・お前も、また大した相手に水揚げされちまったもんだねぇ」
　それは、嫌みでも何でもなかった。常日頃から強欲で横柄なこの女将でも、こんな人間らしい表情をすることがあるのだなど、一体幾人が知っていようか。
「お前、あの方が誰か、なんて知らないだろうねぇ…」
　女将は、大きな溜息をついた。これから言おうと思っていることを、果たして口にしていいものだろうか、と悩んでいる風にもとれた。
「どなたなのですか、昨夜のあの方は…？」
　暫く躊躇い、やがて決意したように女将はぽつぽつと語りだした。
「お前は幾つになったんだっけ？」
　やや場違いな質問に、少女は１６だと答えた。ついこの間誕生日を迎えたばかりだった。
「そうかい。だけど、その年で初めてってのはここじゃ決して早くなんかない。十になるならずで客を取る子もいるんだ。体ができてるだけ、お前の方がずっと幸せだよ」
　早くから孤児になった子供は、物乞いか浮浪児になるか、それともこういう家で育てられ、客を取らされるようになる。フランシスカの家は、こうなる前までは、まだ多少なりとマシだったのだ。
「いいかい、あたしらは金で体を売る女だ。お前もここで食事を与えてもらうんなら、客の氏素性なんて詮索しちゃいけない。どんなヤツが相手であれ、金をもらえば客、あたしらは一晩の歓楽を提供してやるだけさ。お前はいきなりこんなところに放りこまれちまって、まだ分かってないだろうけど、それだけは覚えておきな」
　フランシスカは小さく頷き、どうしようもない現実に俯いた。どうあがいても、結局自分は売春婦なのだ。こうでもしなければ、一家揃って餓死するしか道は残されていなかったのだ。
「…だけどね、あの方は別さ。お前はあの方に抱かれたのだから、知っておいたほうがいい。譬え、二度と客にならないとしても、ね」
　女将はそこで話を止め、とんでもない秘密を打ち明けるように声を潜めてフランシスカに告げた。
「…実はあの方はね、このザクセン公国の王妃様の弟で、この辺り一帯の御領主様でもあるフェルディナント様なんだよ」
「えぇっ…！　まさか、そんな、おかみさん・・・」
　やれやれと言うように女将は首を横に振って、淡々と語り始めた。
「お前も俄には信じられないだろうねぇ。あたしだって、最初聞いたときは到底信じられなかったさ。でもね、あの方が直にあたしにそう告げたんだよ。それで、いつだったか行進の時、先頭に立って兵隊を一杯引き連れていたあの方を見たのさ。勿論立派な鎧を着けてね、そりゃあ凛々しかったもんさ。…それに、お前も気付いただろ、昨夜。あの方は何かの事情で右目がダメになっちまったらしいんだよ。だから、ああやって髪で隠してたのさ。この国の総司令官様も、やっぱり右目が潰れちまってるって聞いたことないかい？　で、忙しいからか知らないけど、大概いつも夜中に来て朝早く帰ってく。ま、金払いはいいんだけどね」
　そこで、女将はフランシスカに座るように促し、自分も固い木の椅子に腰を下ろした。
「全く、お城にいりゃ、どんな綺麗なお姫様だって選り取りだろうに、何を好き好んでこんな場末の娼婦なんか買いに来るのやら。しかも、結構頻繁にさ。…でも、いいかい、お前はこのことは何もしらない顔をしてないといけないよ。あの方がお前に言ったってんなら別だけど。ご自分のことはやっぱりあんまり知られたくないみたいだからね、一応口止めはされてるのさ」
　フランシスカは女将の話を聞きながらも呆然としたままだった。
　しかし、少女の衝撃などお構いなしに女将は話し続ける。
「でも、幾ら昨夜お前がお相手をしたからって、次もあるとは思うんじゃないよ。お前がお目に留まったのは、お前が格別に美人だったからとかって訳じゃないんだ。それはね、お前のその髪だよ。あの方は金髪がお好きらしいからね。だから、金の髪の女なら誰でもいいのさ。若くても年増でもね。ま、お城で美人なんて見飽きたのかもしれないけどさ」
　金の髪…。フランシスカはそっと自分の長い金髪に触れてみた。これが、あの男の目に留まったのだ、と思うと、少しだけ誇らしいような気持ちが湧いてきた。
「…ああ、あたしとしたことが、どうやら少し喋りすぎちまったね。さ、食事が済んだら、さっさと敷布を替えておくんだよ、いいね」
　よっこらしょ、と大儀そうに立ち上がると、女将はベッドの枕元に積まれた銀貨をエプロンにしまい込んだ。お前の取り分だよ、とその中から数枚少女に手渡し、急ぎ足で出て行った。
「金の髪…あの人も、きっと金の髪なのね・・・」
　昨夜、眠りに落ちようとする寸前、フランシスカの意識は、じっとこの髪を見つめて一つの名を呟く男の姿を確かに捉えていたのだ。
　所詮、誰かの代替物。売春婦とは、そういうものなのだ。フランシスカは、全てを諦めたような吐息をつくと、朝食を摂りに部屋を出ていった。