「戯言」

待って下さい…！
叫び声を上げようとしたが、声は出ない。
その人は誰なのですか、孫市殿…！
長政の目の前で、見知らぬ女性と笑っている孫市。
追い縋ろうとした手も、見えざる糸に縛られているかのように動かなかった。
待って、行かないで…！
笑いながら、滑るように遠ざかっていく孫市の背中。
孫市殿・・・！
声にならぬ叫びが、喉の奥で溢れた。

もう、貴方とは会いません。
きっぱりと告げられる。いつも柔らかく優しい美貌が、見たことも無いほど冷たく変わっていた。
貴方のように不誠実な人は、もう嫌です。
待ってくれよ、と言いかけた唇が冷たい物で塞がれた。
くるりと背を向けた長政の華奢な背中は、総てを拒否するように蒼く閉ざされていた。
待ってくれ、長政…！
重い足は懸命に地を蹴っているのに、一歩も前に進もうとはしなかった。
長政、愛しているんだ…！
叫ぶ声は、重い闇に音もなく吸い込まれた。

ぱっと目を開くと、至近距離に長政の泣き顔があった。
「良かった…孫市殿…、良かった…」
「おいおい、どうしたんだよ。何で泣いてるんだ？」
取りあえず不愉快な夢の残滓は忘れることにして、孫市は自分の肩口に顔を埋めて泣いている長政の、明るい色の髪を撫でた。
肩にぽたりぽたりと滴り落ちる涙の雫が、熱かった。
暫く声も無く泣いていた長政は、やがてゆっくりと言葉を押し出した。
「怖い、夢を…。孫市殿が、誰かと遠くに…行ってしまう…」
その言葉に、孫市は小さく笑った。
「夢さ。…ほら、俺はここにいるだろ？」
裸の胸に抱き締めてやる。
長政の耳に、孫市の鼓動が伝わってきた。規則正しい心音は、静かな安堵と愛しさをもたらしてくれる。
しっかりと筋肉の付いた胸は、一見細そうに見えながらちゃんとした確かな逞しさで長政を受け止めてくれた。それが、長政には嬉しい。
暖かい胸に頬をすり寄せると、孫市が強く抱き返してくる。
優しい腕。冷たく恐ろしい夢とは違う。今、現実に抱き締めてくるのはこの腕だ。
「同じ夢、か…」
ぽつりと呟いた声は苦く笑っていた。訝しそうに目を上げて見るその人の髪を、孫市はあやすように撫でてやった。
柔らかな髪は、さらさらと流れ。どんな絹よりも滑らかな手触りを返す。その感触が心地よい。
「孫市殿…」
暖かい胸に長政は顔を埋めた。微かな汗の匂いは、眠りに落ちる前の激しい情交の名残。
ごく稀な、短い逢瀬の時、孫市は激しく貪るように長政を求める。その身に自分の総てを焼き付けようと言うように。その激しさに長政はいつも酔わされてしまう。
誰よりも女が好きだった筈の男が、逢いたかったと熱っぽい声で囁き、壊れてしまうのではないかと思うほど狂おしく長政を抱く。
その力強い熱さの前に、己の総てが溶け流れ出してしまうのではないか、と長政は少しだけ不安に思う。またそれも、嬉しくあるのだけれど。
「笑わないで下さい。某はもう、孫市殿なしでは…」
優しい腕にあやされながら、長政は小さな声で呟いた。何故、彼が自分を選んでくれたのか分からないまま、長政はこの恋に酔っていた。
孫市は目を細めて笑った。いじらしい事を言うこの男が、今心底愛しいと言える。
「俺も、さ。他の誰でもなく、俺は浅井長政を愛してる」
いとも直接的な愛の言葉に、ぽっと長政の頬が赤くなる。どれ程愛を囁いてみても、こういう素直な反応を返すところが可愛くて。
くっくっ、と喉の奥で笑いながら、孫市は長政の肩を抱く腕に力を込めた。
「枕並べて同じ夢見てるようじゃ、世話ないねぇ」
「某は女性とどこかに行ったりしません！」
むきになる頬に、軽く口づける。全く、綺麗な顔なのにこの愛らしさはどうだろう。ガラにもなく、胸が弾んでくるじゃないか。
「そうじゃなくて。俺だって、もう長政を離したくないんだぜ？だから、怖いと思う事を夢に見た訳だ。それだけ、俺たち想い合ってるって事だろ？」
「えっと…それは・・・」
少し上目遣いで探るような目をする。それがどこか媚態を思わせ、孫市の胸はどきりと高鳴った。
「…孫市殿も某を失うのが怖い、と…？」
正解、とわざとおどけた様に言って、今度は唇を合わせる。
「何度でも、言ってやるさ。俺はもう、長政以外、誰も要らないんだ」
「嬉しい・・・、孫市殿・・・」
温もりを求める子犬のように胸に擦り寄ってくる姿が、健気なほどに愛しくて。
「・・・あ、やべぇ」
「・・・？　孫市殿？」
ぎゅっと強く抱き締めて、形の良い耳に熱い吐息ごと囁く。
「また…欲しくなってきた…」
「あっ・・・」
確かに触れ合った、熱。如実にそれは孫市の激情を露わにしていた。
「孫市殿・・・」
後はもう、言葉など要らない。総てを受け止める為に、長政は静かに白い体を開く。
積み上げた欲の向こうに、この愛の果てがあるのなら。不安な恐ろしい夢は、現実になることはないのだろう。
二人同じだけの愛と不安を抱えているのなら、それを確かなものにする為に努力を惜しむことはない。その想いがあれば、共に歩いていける。
愛していますと囁く声。
愛していると応える声。
真っ白な夢のようにどこまでも広がる現に酔い、二人は果てなく落ちて行った。

〜終わり〜



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STRAY　SHEEPの岩永様に差し上げました^^
初めての孫長…。
めっずらしいことに、甘甘ですよ！（笑）
孫市を格好良く書くのは難しいですね！
特にうちのリーマンでは駄目過ぎるので（笑）
長政は書きやすいです。
今後もこんな感じで行くのでヨロシクです^^