「重陽」

　白露に　風の吹きしく　秋の野は　貫きとめぬ　玉ぞ散りける
「柳さ〜ん、何スか、これ？」
「これは秋の風情を詠んだ歌だ。分かるか、赤也」
放課後の図書室。人影も疎らな其処で、古語辞典を広げて何やら勉強しているのはテニス部の三年である柳と後輩の赤也だ。
「え〜、俺秋って好きじゃないッスよぉ〜。やっぱ夏がいいッス！　プールも好きだし、アイスも美味いし♪」
はしゃぐ後輩の頭を、柳は丸めたプリントでぽこっと殴った。
「そんなだからいつまで経っても古文が弱いんだ、お前は」
呆れた先輩の声に、赤也は大仰に頭を押さえて見せた。
「だって〜〜〜」
「おや、こんにちわ、柳くん、切原くん。お勉強ですか」
そこへ現れたのはテニス部が誇る”紳士”柳生だった。
「あぁ、比呂士か。少しな、予習をしようかと思ってな」
うわ、柳生先輩来ちまったよ、と内心赤也はドキドキものだった。
決してこの先輩が嫌いな訳ではない。或る一点を除いて、紳士な人だと思う。
けれど困った事に、柳と二人揃うと、赤也には訳の分からない異次元の話で盛り上がるのだ。それは余り歓迎出来ない事実だった。
案の定、今も「秋の行事」とやらで格調高いちんぷんかんぷんな会話が盛り上がっている。
「…あぁ、そう言えば昨日は重陽の節句だったな。お前はどうした、比呂士？」
ふと柳が洩らした一言、それが、混乱への序曲だった。
「えぇ、勿論たっぷりと堪能しましたよ。仁王くんの菊…」
言いかけた柳生の後頭部に飛び込んで来たのは、仁王のフライングニードロップ。
ガコッ！という小気味のいい音を立てて、柳生の額が机に激突した。
「阿呆！　何言っちょるか！」
どこから飛んで来たのだろう。それにしても仁王先輩に図書室って似合わねぇよな〜、などと赤也は呑気に思っていた。
「雅治、図書室では静かにしろ」
ツッコムべきはそこでいいのだろうか。
「ふふふ…照れなくてもいいのですよ。昨夜は悦んで見せてくれたではありませんか。勿論写真も…」
端整な柳生の顔が満面の笑みで崩れている。おまけに鼻血だ。
「誰が悦んで見せるかっ！きさんが無理矢理ひん剥いたんじゃろがっ！」
バコッ！！と仁王の鉄拳が再び柳生の後頭部を襲う。
メガネごと柳生の顔面が机にめり込んだ。
「まぁそう興奮するな、雅治」
隣で大騒ぎが起こっても柳は冷静だった。そんな柳のクールな所が好きだな〜と、赤也は全く他人事のように考えている。
「ばってん、参謀！　こやつがこげん阿呆な事ばヌカしよるけぇ、俺…！」
仁王の白い頬が珍しく赤く上気していた。
「仁王くんは照れ屋さんですね。まぁ、そんなトコロも可愛いのですが…」
復活した柳生がひびの入ったメガネを直しながら、尚もクチを開く。
「まだ言うか、この…！」
仁王は柳生の襟首を締め上げた。
「ふふふ…、夜になったらあんなに見てくれと…」
柳生はどこかスイッチが入ったのだろうか。うっとりと言葉を続けようとした。
「せからしか…！」
柳生の頬に、仁王の地獄の往復ビンタが炸裂した。
「…ふむ。これでは落ち着いて勉強できないな。赤也、俺の家に行くぞ」
「は〜い♪・・・ところで柳さん、ちょーよーの節句とか菊とか、何の事ッスか？」
立ち上がり、隣で始まった痴話喧嘩になど目もくれずに荷物を片づけ始める柳に、赤也は今回の騒動の原因を尋ねてみた。
「あぁ、重陽の節句というのは菊見の節句の事だ」
「え〜っと、じゃあ…」
「後は自分で考える事だな」
ケンカの原因に漸く思い当たった赤也が、下世話な想像で笑い出しても、図書室ではまだ大混乱が続いていた。
「どんな花も、貴方という極上の華に優る物はありません」
「寒かっ！」
「今夜もたっぷりと観賞させて下さいね」
「誰がさせるか！そげんこつより、携帯貸しぃ！」
「嫌です、コレは私の宝物です…！仁王くんのあんなトコロやこんな声が詰まった…！」
「余計悪いわ、阿呆！変態！」
さながら図書室は戦場であったという。その惨状は想像に難くない。
「あぁ…私の仁王くん…」
「知らん！」
帰宅途中、離れて歩いていた影法師は、やがて重なり、そして夜の闇へ消えていった。