千歳が漁から戻ってそろそろ三月になろうか。
その間、柳生が家に現れることは一度もなかった。姿をみかけることもない。
漸く諦めたのか安堵する反面、一抹の寂しさのようなものを感じていたのは否めない。
それは、千歳に対する裏切りになるのだろうか。
違う。徒に体を重ねた情の名残だと、仁王は自らを納得させていた。
だが、まさか柳生が千歳に近づいていたなどとは、想像もしていなかった。
「こいつな、柳生っちゅうてな、医者なんじゃ」
「医者？！」
そんな馬鹿な、と言おうとして仁王は言葉を飲み込んだ。
そんなことを言ったら、何故そう言うのか反問されるのが落ちだ。
千歳には言っていない。このまますっぱりと忘れてしまいたかったからだ。
このままいったら、二度と引き返せないような気がしていた。
テーブルの上にはビールと軽いつまみが用意されている。立場上、仁王は柳生に酌をしてやらなければならない。
「はい。この近くで小さな診療所を開いています。奥様、どうぞお加減の悪いときにはお寄り下さい」
柳生は全く悪びれた風もなくそう言ってのける。怪しげな品物を売り歩いていたなど言っても誰も信じないだろう。
「このツラやったら、近所のカミさん連中がせからしかね」
千歳は楽しそうに笑った。
「医者、か…」
付き合いで飲むビールが、いつもより苦い気がした。
「それにしても、本当にお美しい奥様ですね。さすが千歳君が自慢しているだけの事はあります」
じっと仁王の目を見つめながら、ぬけぬけと柳生が言う。
初対面でもないのに。仁王の様々な痴態を知り抜いているというのに。
「おぉ、そうじゃろそうじゃろ。俺の自慢の女房やけん」
千歳は褒められて嬉しいのだろう。仁王の肩をぐいと抱き寄せた。仁王は千歳にしなだれかかる形になる。
「これはこれは…」
柳生は苦笑した。そのレンズの奥の瞳に、一瞬炎が揺らいだようだ。
「ちぃ・・・」
困ったように仁王は千歳を見上げた。できればさっさと退散して欲しいのだ。
しかし、千歳はお構いなしだ。
楽しそうに柳生と出会った時の事を語り出した。
近所のスナックで飲んでいた時、いつものように酔っ払い同士が喧嘩を始めた。火の粉が降りかかるようなら（腕力で）仲裁に入ろうかと千歳が思っていた、そのとき。
酔っ払い二人をいとも容易く投げ飛ばして、黙らせてしまったのがこの柳生だったのだ。
一見優男に見える柳生だが、その手際の見事さに感心した千歳が酒を奢ったのがきっかけだったのだと言う。
「奥様の事は、いつも千歳くんから伺っていますよ」
しゃあしゃあと言ってのけるこの男の面の皮は、どれ程厚いのだろう。
当然、仁王は千歳との出会いを偶然だなどとは思ってもいない。この男の事だ、何もかも計算づくなのだろう。
「あぁ、すみません。洗面所をお借りしたいのですが」
「おぉ。まさ、案内しちゃり」
「え・・・」
何もかも知っているのに、わざとらしく聞いてくる。しかし、ここで変に拒んではおかしい。…いや、いっそここで何もかも暴露してしまおうか、と一瞬に王は本気で考えた。
だが、そうなれば、仁王は総てを失うだろう。
仁王は独りでも生きていく自信はあったが、千歳を失うのはいやだった。愛しているのも勿論だが、今の左団扇の生活も気に入っている。
もしも、千歳が去ってしまったら、後に残されるのはこの柳生だけだ。それは、怖かった。
嫌いなのかと言われたら、頭から否定することはできないが、では好きなのか問われれば、素直に頷くつもりもない。
渋々仁王は立ち上がった。する必要のない案内をする為に先に立つ。
「きさん、何のつもりじゃ」
「貴方に会いたくなったので、正規のルートを通って来たのですよ」
背後から男の声。リビングから見えない位置で、柳生は仁王の腰を抱き寄せた。
「離せ！」
すぐ向こうに千歳がいるのに、こんな真似をされたくはなかった。仁王は本気で柳生の手を振りほどく。
「つれないことですね。仁王くん。こんなに愛しているのに」
背後から首筋に男の吐息がかかった。
「あ・・・」
何という事だ。一瞬、ぞくりと背筋を伝い落ちていったのは、淡い期待感と、欲情だった。
「ふふ…可愛い人だ。ですが、今夜はやめておきましょうね。もっと面白い趣向を凝らしたいですから。貴方にも、千歳くんにも楽しんで頂ける様に、ね」
軽い含み笑いを残し、柳生はドアの向こうに姿を消した。
いたたまれず、仁王は走って千歳の下に戻った。
「ちぃ！」
「ん？ どげんしたとね、まさ」
慌てている仁王を不思議そうに見上げる千歳の唇を、仁王は自分のそれで覆った。
短くて激しいキスが終わる頃、柳生は澄ました顔で戻ってきた。
「それでは、今夜はもう遅いですから、私は失礼させて頂きます」
「お、そうか。また来んしゃいよ」
よっこらしょ、と千歳は立ち上がり、玄関まで柳生を見送る。
「それでは奥様、お邪魔を致しました」
如何にも礼儀正しく一礼すると、柳生は静かな足取りで夜の闇に消えた。悠揚迫らない足取りは、いつも変わらない。
「ん〜、さてと。飲み直すかのぅ」
酒豪の千歳はまだ飲み足りないらしい。リビングに戻ると手酌でやり始めた。
「ちぃ、して！」
手早く皿などを片付けた仁王は、勢いよく千歳に抱きついた。
「ん〜、乗り気とね。よかよ。ベッド行こか」
ぽんぽん、と優しく背中を叩く千歳の手は、大きくて暖かかった。
「やじゃ、ここで…！」
返事も待たず、仁王は千歳の前に跪いてベルトを外すと、まだ力ないそれを掴み出して、いきなり口に含んだ。
「ん・・・、どげんしたと？」
「ちぃ、早う…！」
服を脱ぐのももどかしげに、仁王は千歳の腰の上に跨った。怖い。あの男が、とても怖かった。何か碌でもない事を考えていそうだ。
その不安を消す事ができるのは、今は千歳の強い愛撫しかなかった。
「んっ…あっ・・・！」
内部を夫に満たされながら、仁王は激しく腰を振った。まだだ、もっと、もっと…！
いつしか、仁王はその思いを口に出して叫んでいた。
「あぁっ…、もっと…ちぃ、もっときつうして…！」
常よりも尚狂ったような痴態を見せる仁王を訝しく思いながら、そんな淫らな姿も可愛いと、千歳は何も知らずに喜んでいた。
やがてソファーからベッドに場所を変えて、仁王の精が尽きるほど愛し合った二人は、気だるい満足に包まれて体を投げ出していた。
「ちぃ…好いとぅよ」
千歳の厚い胸に頬を摺り寄せ、仁王は自分に言い聞かせるように呟いた。
「今夜のまさは、激しうてよか」
妻の銀の髪を撫でてやりながら、千歳は愛しそうに仁王の薄い体を抱き寄せた。
「ちぃ…離さんでな、俺ん事」
琥珀の瞳が欲情の残り火に潤んで千歳を見上げる。
「おぉ、誰が離すもんかよ」
千歳は仁王の頬に、額にキスを落とす。愛しくて堪らなかった。
「ん・・・。嬉しか…」
そんな夫の熱い愛に包まれながら、仁王の胸中には不安が渦巻いて、消えることはなかった。
これから先、一体何が待っているのだろう。そして、柳生の目的は…。
不安は、やがて現実になろうとしていた・・・〜to be Cntinued〜
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やった！久々の新作！
なぜかここでいきなりセールスマンです（笑）
比呂士の奴、とうとうキタなって感じで。
策士ですよ、奴は。
これからどうなるのか、乞うご期待！
…って言っても続きはいつになるのか
全くの未定ですが＞＜；
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